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大連中山広場

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夕食後、ホテルに戻ってから、ホテルの近くの中山広場などを散策しました。
中山広場は、満州国時代は大広場と呼ばれていたところで、大連の中心地として、戦前は官公庁や金融機関が立ち並びました。
これは1920年に竣工した、朝鮮銀行大連支店です。
現在は、中国工商銀行中山広場支行として使われてます。

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これは1917年に竣工した、旧関東逓信局です。
現在は大連市郵政局として使われてます。

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1908年竣工の旧大連民政署(大連警察署)です。
現在はシティーバンクが入居しているようです。

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1914年竣工の旧大連ヤマトホテルです。
現在はホテル大連賓館として運営されています。

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右側の建物は、1936年に竣工した、旧東洋拓殖株式会社大連支店です。
現在は、交通銀行大連市分行となっています。
左側の建物は、1910年竣工の旧中国銀行大連支店です。
現在は、中信銀行中山支行です。

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右側の建物旧中国銀行大連支店です。
左側の建物は大連人民文化クラブです。
これは、1950年のソ連進駐時代にベラルーシ人のナジェフの設計で作られたものです。
中山広場の建物の中では、比較的新しい建物ですね。

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これは1919年竣工の、旧大連市役所です。
現在は、中国工商銀行大連市分行となってます。

シベリア鉄道の太平洋側の玄関口となる不凍港を欲していた帝政ロシアは、1898年に遼東半島南端を租借すると、大連湾に面した青泥窪に商業都市「ダーリニー」の建設を開始した。ダーリニーはパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画された。都市の中央に配された円形広場はニコライフスカヤ広場と命名され、周囲に市庁舎・郵便局・銀行・集会場・商業取引所などが建設される予定だった。しかし日露戦争までの僅かな期間に完成したのは北部の行政市街(現在の旧ロシア人街)だけであり、その他の街区では街路の整備は進んでいたものの、未開発の更地が大部分を占める状態だった。1904年5 月26日、日本軍の南下を防いでいた南山要塞が陥落するとダーリニーのロシア人軍民はパニックに陥り、一夜にして旅順へと脱出した。こうして、ダーリニーの都市計画は未完のまま放棄されるに至った。
新たな統治者となった日本はダーリニーを大連と改名、1906年には行政を担当する大連民政署をおいた。ニコライフスカヤ広場は大広場へと改称され、ここに大連民政署の新庁舎が建設された。以降はこの広場が行政の中心地として発展し、今日に残る近代建築の数々が建設されていった。戦後、1945年11 月に中国人による大連市政府が成立。大広場は中山広場と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居した。以後60年以上に渡り大きく手を加えられることなく維持され、現在は大連の代表的景観として保護されている。

(Wikipediaより引用)


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夜のライトアップされた写真では分かりづらいと思うので、2日後に通ったときの昼間の写真もあげておきます。
中山広場を中心としたロータリーであることが分かると思います。

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現在、中山広場は、地下鉄工事が行われている関係で、公園の一部に立ち入ることはできません。
中山広場は、市民の憩いの場として親しまれているようです。
公園にはやたら人に慣れたハトが乱舞していました。
ほとんどラピュタ状態(^^)

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