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東鶏冠山北堡塁

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次は、旅順攻城戦でも屈指の激戦が繰り広げられた、東鶏冠山北堡塁です。
小高い山である東鶏冠山に築かれた、永久要塞です。

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内部はコンクリートなどが多用され、とても100年前に完成したとは思えないような立派な施設です。
日本軍がここを攻略するのに手を焼いたというのも、非常に頷けます。

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日露戦争後は、攻城戦での損壊が激しく、中国での戦いが内陸に移ったこともあって、要塞の大半は放棄されたようですが、作りが頑丈なだけあって、現在でも要塞内部はよく残っています。

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ここは、シベリア第7狙撃兵師団長であり、旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官であった、ロマン・イシドーロヴィチ・コンドラチェンコ中将の戦死した場所です。
東鶏冠山北堡塁を視察し、兵士に勲章を与えた後、28サンチ砲の直撃弾を受けて天蓋は破壊され、即死しました。
右手に見える石碑は、日露戦争後、日本が彼の戦死を悼んで建てた記念碑です。

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日露戦争後の1916年に作られた、「東鶏冠山北堡塁」と書かれた記念碑です。
山口県から運んできた青いみかげの石で作られています。

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これは側防窖室です。
側防窖室とは、Caponier(カポニエール)の和訳で、堀に侵入した敵兵を射撃する施設のことです。
映画「二百三高地」でも、堀に迷い込んだ日本兵が、側防窖室から機関銃の掃射を受け、壊滅するシーンが印象的でした。
しかし、堀にいる敵しか相手ができないので、使いづらい感じもするのですがどうでしょう。
堀に入らない限り敵の視界には入りませんので、一種の反斜面陣地なのかな。

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堡塁の地下に坑道を掘り、ダイナマイトを設置して破壊した爆破跡です。
このような爆破跡は要塞内に何カ所か見られます。
堡塁の分厚いコンクリートベトンが、砲撃や爆薬などにより破壊されているのが印象的でした。

東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほるい簡体字:东鸡冠山北堡垒)は、中国大連市旅順口区の東鶏冠山(海抜119m)にある帝政ロシアが日本軍の防御の為に建設した堡塁であり、日露戦争の激戦地である。
1898年帝政ロシアが旅順を租借し、1900年、旅順の東側の半永久的な防御線として堡塁を中国人労働者を使役して建設した。天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が配置され、堡塁は不規則な5角形をして、周囲496m、面積9900平方mである。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網を架設した。
日露戦争第1回旅順総攻撃(1904年8月21日)、日本軍第11師団による堡塁の攻略が始った。第11師団は鉄条網を突破することに成功したが、内堀に入ったが土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により、日本軍は大損害を受けた。その後、数度に渡り坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日、日本軍の発射した25センチ榴弾砲弾が命中した際、ロシアの司令官コンドラチェンコ少将が戦死した。そして、12月18日、堡塁の正面で2.3tのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて日本軍が堡塁を占領した。この戦闘で日本軍はこの堡塁を突破する為、約8,000人の死者を出した。

(Wikipediaより引用)


旅順へ行ったら、やはり二〇三高地と東鶏冠山北堡塁は行くべきでしょう。
近代戦闘の洗礼を受けた要塞は、それだけで貴重な施設です。
ましてや、日露戦争、ひいては日本の将来を決定づけた戦いですから…。

ジェームズ・F・ダニガンが指摘したとおり、日露戦争は機関銃や塹壕戦など、その後に起こる第一次世界大戦型の戦いの先駆けとも言える戦いです。
古戦場を見るだけでも、それを戦い抜いた日露の将兵の苦労が偲ばれます。

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