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湊川神社

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湊川神社は、明治5年(1872年)5月24日に創建された、比較的新しい神社です。
現在の社殿は、戦災によって焼失したものが昭和27年10月24日に復興新築されたものだそうです。

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楠木正成の墓は長らく荒廃していましたが、元禄5年(1692年)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立しました。
これが御墓所(楠木正成墓碑)です。

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延元元年(1336年)5月25日の湊川の戦いの際、楠木正成はこの殉節地(楠木正成戦没地)にて戦死したと伝えられています。
案内を頼めば門内も入れたようだったのですが、丁度七五三のシーズンで、社務の人も忙しそうだったので、諦めることにしました。

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こちらは湊川公園の楠木正成像です。
跳躍感があって良い感じですね。雑誌などによく掲載されています。
湊川公園にはこれ意外には特にめぼしいものは無いようでした。

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の1336年7月4日((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
(中略)
後醍醐天皇は正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、援軍として差し向けた。水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。
合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。
ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。
当時の神戸市付近は、現在よりも海面が高かったこともあり、今以上に海が六甲山地に迫っていて平地が狭く、大軍の行動には適さなかった。そのため、宮方は水軍を全く持っていなかったことが決定的な敗因となった。

(Wikipediaより引用)


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湊川の戦いの当時、湊川は海岸線であったようですが、その後長年にわたる埋め立てにより、現在では湊川は神戸の山の手側と呼ばれるようになりました。
当然ながら、湊川神社も完全に内陸にあり、都市化も進んで、当時を偲ばせるものは残っていません。

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