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坂の上の雲 第9回 広瀬、死す

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坂の上の雲 第2部もとうとう最終回です。
今まで秋山真之の盟友として迫力ある演技を見せていた広瀬武夫少佐(藤本隆宏)も、今回が最期の活躍です。

今回は、旅順港閉塞作戦がメインテーマです。
第一次閉塞作戦は広瀬が足に怪我を負って帰ってきたシーンだけで終わっていて、あれれ?という感じだったのですが、その分、第二次閉塞作戦に気合いが入ってました!^^b
まさに、文部省唱歌「廣瀬中佐」もかくやという大車輪の活躍。
加えて、戦死シーンは非常に美しく、心に残るものでした。
演出的にも、第一次閉塞作戦で迫力ある映像を見せると、第二次閉塞作戦の映像の印象が下がってしまうので、よく出来ていたと思います。
最初は、日露戦争に突入してまもなく第2部が終わってしまうという構成を不思議に思っていたのですが、終わってみれば良い構成だったと思います。
いよいよ、来年の第3部に期待が高まります。^^

文部省唱歌「廣瀬中佐」作詞作曲不詳

1.轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

2.船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
呼べど答へず、さがせど見へず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し。

3.今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど

秋山真之はアメリカ合衆国へ留学して兵学研究を行い、観戦武官として米西戦争におけるサンチャゴ閉塞作戦を観戦し、海上戦力の理論的研究を行っていた。秋山は封鎖にはリスクが大きいと考えていたが、二等戦艦「鎮遠」を用いて湾口を閉鎖する作戦を計画し、有馬良橘中佐は機密で旅順の実地調査を行って封鎖作戦を研究し、1903年(明治36年)にバラストを満載した古い艦船を湾口に沈め、幅273mの旅順港の入り口を閉塞する作戦を軍令部に対して提出していた。連合艦隊司令部が発足すると、作戦計画である「機密第一二〇号」が発せられる。開戦当初の作戦計画では、海軍は旅順、仁川のロシア艦隊の撃破と、陸軍への支援が任務とされ、連合艦隊司令長官の東郷平八郎や島村速雄は閉塞作戦を見送った。
(中略)
閉塞作戦は三次に渡って実行された。
第一次閉塞作戦は、1904年2月24日未明に実施された。5隻の老朽船と77名の志願兵を集めて決行したが、ロシア軍の沿岸砲台が閉塞部隊に激しい砲撃を浴びせたため、作戦は失敗した。
ロシア側では3月に太平洋艦隊の司令長官がオスカル・スタルクからステパン・マカロフ中将に代わり、マカロフは部隊の組織的改革と湾内警備の強化、日本海軍の航路を研究しての機雷敷設を行い、打撃を与えた。マカロフが4月13日に戦死すると、旅順艦隊は再び湾内に逼塞する態勢を取った。
第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、またもやロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神とされ崇められた。
第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、天候不順と陸上砲台からの迎撃で失敗する。

(Wikipediaより引用)


古来より、艦船は陸上砲台との戦いは避けるべきとされています。
不沈の陸上砲台は耐久力に優れ、火力の集中も容易であり、火砲の照準も予め定めておける陸上砲台は、火力効率において艦艇に明らかに優れています。
要塞近郊において、無防備の汽船を用い行う閉塞作戦も困難を極め、モデルとしたサンチャゴ閉塞作戦同様、旅順港閉塞作戦も失敗に終わりました。
とはいえ、完全に閉塞させることは出来なかったものの、航路は制限されたため、哨戒や機雷の設置による旅順港の封鎖に一役を果たしたという見解もあるようです。

旅順港閉塞作戦の成功確率をどのように考えていたのかは分かりませんが、仮に成功すれば戦わずして勝つという最大の効果を上げるのは間違いなく、作戦の方向性自体は間違っていなかったのだと思います。
とはいえ、旅順港閉塞作戦で失った船舶は、トン数で当時の日本商船の5%にあたり、海運上での損害は甚大だったようですが。

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